LIGHTS OFF ON PEDRO COSTA 和訳文

LIGHTS OFF ON PEDRO COSTA 和訳文

TAKE ONE(http://www.takeonecff.com)という映画系サイトに掲載されているペドロ・コスタ氏のインタビューを和訳しました。

単に自分の興味のために読み始めたのですが、ペドロ・コスタ氏の作品、映画作り、等に関心のある方は多いと思うのでここに掲載します。

 

昨年の9月に開催されたUniversity of Cambridge’s CRASSSH conference: Filming Transnational InteriorsでCambridge Arts Picture Houseにポルトガルの映画監督ペドロ・コスタさんをお招きし、彼の代表作「ヴァンダの部屋」を上映しました。映画界に突如現れ、その画面で私たちを魅了した「血」から、コスタ氏の芸術的視点はリズボンの町外れ、フォンタイーニャス地区に住む人々の生活、そして(今はもう亡き)その地区の死を巻き込んでゆきました。「血」を始め”フォンタイーニャス地区三部作”である「骨」「ヴァンダの部屋」「コロッサル・ユース」の根底に流れる美的・主題的側面についての対談が行われたTrinity CollegeのThe Old Guest Roomは、人文主義的・詩的だとも言える彼のカメラの目線が共鳴した場となりました。

 

Loreta Gandolfi: あなたにとって映画とはなんでしょうか?

 

Pedro Costa: 私にとって映画とは、現実の世界では勇気がなく立ち向かってゆくことのできない事に対面できる手段だと言えます。だから映画では・・・私の少し苦手な事が出来るのです。そしてこの”立ち向かってゆくこと”には常に現実がつきまといます。だから映画とはとっても難しい問題を避けることができないものだとも言えます。先ほど私があげた(上映した?)「何も変えてはならない」にしても、これは音楽についてのミュージカル映画とも言えるのでしょうが、本当は歌うことの勇気についての映画なのです。例えば、私には道ばたで歌う勇気はありません、もしかしたらこの中のどなたかにはあるのかもしれませんが(笑)。

 

LG: あなたはデジタルカメラを使っています。にもかかわらずあなたの作品には、単に映画的・芸術的といったことではなく、どこか昔の映画に対する懐郷のようなものを感じます。

あなたは写真学校に行っていたということを言及されていました。特に「コロッサル・ユース」「ヴァンダの部屋」についてですが、そのときの経験をどのように関連づけているのでしょうか。なぜ写真ではなく、映画なのですか?表現として、映画は何を与えてくれますか?

 

PC: 写真コースは短いんですよ。私はそこで技術的な側面というのを身につけたかったんです。私は映画学校にも行ったんです。映画学校に行った理由というのは実践的なことを学ぶためです。写真とは違うカメラの使い方、フィルムの在庫とか、編集の仕方とか、とかとか。私が素敵だと思う映画というのは手作り感のある映画です。たとえばロメールとか、それとジャン・ルーシュとか、アメリカ映画の古典でもいますよ、ジョン・フォードです。

 

LG: あなたの映画は写真の彫像的特徴に満たされていると思うのですが。

 

PC: それはどうでしょう・・・動くのを止めてしまったら意味が無いですからね。僕は写真家にはなれなかったと思うんです。写真家にはこうした自由を得ることが難しいですから。僕の場合は、僕は人がいないと撮れないんです。そこに誰もいなかったり、あるいは景色のみの場合、なんだか馬鹿みたいな気になるんです。

 

LG: その言葉はフランソワ・トリュフォーを思い出させます。彼は場所には興味が無い。人にしか興味がないと言っていました。

 

PC: 多分僕の場合はこうやって(人を撮ることで)現実と戦ったり、立ち向かったりしてゆかなければいけないからです。僕たちはたくさんのものを失ったと思うんです、人類として。永遠に失ってしまったもののうちの一つは世界、海や木や雲、と私たちとの関係です。フォードの映画を見ると男というものが山とか、コーヒー、馬よりもあまり重要ではないということがわかると思います。全てが同じレベルでフィルムに存在しています。彼の映画では全てが同じ状態にあります、そこにはモノとカタチの関係しかありません。僕が山の前とか、川とか、何か美しいもの、日の入りとか、影とか、そんなようなものの前に立ったとき、撮りたくありません。簡単すぎるんです。それにみんながするでしょう。例えば仕事のためにやってきた若く未熟な人が、素敵なショットを撮って、そこにベートーベンの音楽なんかのせてみて「こいつはすごいぞ」なんて思ったりして。それと同じことを繰り返し繰り返しやっても無駄ですよ。なぜならそこに関係が生まれていないからです。悪い写真として映画の中に出てきて、それなのに撮ったやつは「見ろよ、おれはムービーメーカーだけじゃなくてアーティストでもあるんだぜ」なんて言います。

 

LG: 始めの方で「立ち向かう」ということについて話していました。「血」の冒頭では世代間の対決という主題が提示されます。Vicente (Pedro Hestnes)とその父(Canto e Castro)、そして小さいNino (Nuno Ferreira)についてです。この映画に埋め込まれた関係というのは私にバーグマンの「野いちご」と「鏡の中にある如く」の中の悲惨で複雑な家族の関係を思い起こさせます。

 

父と母が存在/不在することの相互作用、常に存在する代理としての親の姿、こうしたことから私はあなたの映画にとって父、母とはどういったものなのか伺いたいです。「血」では父が自身の死をVicenteからNinoに伝えるようにと言いますね。その後NinoがVicenteに兄弟の絆は続くのかという質問をします。このモチーフの複雑さは「骨」の中では母と娘の関係、父と息子の関係で示されます。「コロッサル・ユース」の中ではVentura、主人公ですが、私の理解が正しければ、彼は生物学的には複数の子の父なわけです、彼がどのような父なのかということはわかりませんが。「ヴァンダの部屋」では重要な娘と母のふれあいがあります。それに後悔と共にヴァンダの友人がヴァンダに語りかける感動的なシーンがあります。「僕も、母と呼べる人はいない。君は母しかいない、だからみんなを父と呼べるんだ。だから僕は去った—君をこれ以上傷つけないために。」この言葉から私はこの映画は母親の肖像で満たされているのではないかというふうに思いました。

 

ですから、私がこれらの映画の中の底流に明らかに感じる永続的な力強さというのは親子の関係、それと同じように重要な親と子孫の関係ではないかと思います。これらが各登場人物の感情の大本にあるように思います。

 

PC: 私がどれほど伝記的要素を退けようとしてもこれはどうしても避けることができないものでしょう、これは私の家庭、父母との関係からくるものです。それと、これはあまり面白い話ではありませんが、多分私自身いくぶんか孤独に暮らしていたんです。家族からも離れ、とても、とても、残酷なまでに孤独だったんです。多分この経験もからんでいるのでしょうね。

 

そしてそこから、家族の代わりになるものをさがし、見つけました、多分、あのコミュニティでは、あの人々といれば、あの地域にいれば、あそこは今も昔も大きな家族みたいなもので、バイオレントでもあり、非常に複雑でもあります。そこではとても強い絆を見つけることができました、その絆は終わってしまったのですが。「コロッサル・ユース」は少しそうしたこととからんでいます。彼(Ventura)はみんなの父であり、また同時に誰でもない存在です。この考えはどこからきたのか・・・多分私が思いついたんでしょうね。けど役者達もそう思っていました。もっとも彼は役者ではないですが。彼は身長が高く、体つきも良いんです。

 

彼はあの場所を見つけた最初の人であり、家を建てた最初の人でもあります。それに彼はアフリカのCabo Verdeから来た最初の人でもあり、だから父でありパイオニアのような存在なんです。と同時に彼はとても、とても悲しい男です。彼は堕落した人であり、意味も無い労働をしすぎ、事故にあい、酒におぼれ、少しおかしくなりました。こうした二面性が彼にはあるんですね。

 

LG: 「コロッサル・ユース」の最初のカットは映画というよりも、カメラは舞台の一部を撮っているかのような、舞台映画のような印象を受けました。ご自身で見たときにそういった印象はありましたか?

 

PC: そう言ったのはあなたが初めてですけど、そうですね。わからないですね・・・けど「ヴァンダの部屋」ではありました。「コロッサル・ユース」でもあるのでしょう。「ヴァンダの部屋」でそう感じたのは面白かったですね、というのもあれを撮ったときには僕には一つのアイデアしかなかったんです、ルールも支配者もなく、ただどうやって映画を組み立ててゆくのか、そのアイデアしかありませんでした。今思い返すと、確かに、あの部屋、ヴァンダの部屋、あの家、あの家は女性の家ですから、確かに劇場みたいですね。全部劇場にあるものみたいです。もしあそこに男性がいたら、より映画みたいになったことでしょう。より私の過去の映画みたいに。男性というのは気取りやで、地位をほしがります。男性が座るとき、髪を整えるとき、僕はジェームズ・ディーンやジェームズ・メイソン、ゲイリー・クーパーを見ているのだと思うのです・・・。

 

それと、僕は男性といたほうが落ち着きます。多分この考えは私を作り上げたハリウッドの古典作品からのもので、映画にとって最重要なものの一つだと思われる、性差からくるものでしょう。「男は男であり、女は女である」と言えます。単純なジェンダーの違いです。この差というのは僕の映画でははっきりと、見て取れるかと思います。男性というのは女性の世界から追い出されています。彼はむこうにいて、話して、こっちに来て、少しばかり泣いて、詩人になってみて、「ああ、僕はなんて悲しいんだ。僕はなんて・・・」と言うとヴァンダが「ノーノーノー、そんなことない。これが私たちの暮らしなんだから、見つめなきゃ。」と言って彼女はどっか行っちゃいます。  僕はとあるシーンを思いついて、テイクを何度も重ねました。そのシーンというのはヴァンダがベッドで横になり、目をつむったまま話を聞いているんです。彼女が寝ているのか、話を聞いているのかは私たちにはわからない。男が話し、彼女はベッドで無言のままいるというシーンです。

そしてこのシーンの撮影段階になり、このカットの撮影をしようとしたとき、僕はヴァンダにベッドから去るように言いました。というのはそのときなにかが起きていると思ったんです。男は本当に悲しみ、彼女は本気になってきました。彼女はそれに我慢できなくなり、その場を去るとき、予想外の言葉を彼女は言いました。「いいかい、私はもう行くよ。これ以上あんたの話は聞きたくないんだ。」

 

撮影後、彼女は僕に言いました。「あなたがベッドからどくに言わなくても私は多分どいていたよ。こういうのは我慢ならないんだ。」彼女が言ったんですよ。だから「こういうのは」と彼女が言ったとき彼女が演じていたのかどうかはわかりません。「こういうの」というのが、男を示していたのか状況を示していたのか、例えば、”こういう男が嫌いだ”という意味で使っていたのか、わかりません。この作品に出てくる女性、女の子、というのは演劇的だという感じがします。僕が思うに彼女らの声が大きいからだと思います。基本的に僕の知り合いの女性というのは声が大きいんです。男はというと、少しばかり心が開けていて、つかみにくく、どうもはっきりとしません。

 

LG: それはとても面白いですね。「血」の中に出てくる男女の関係を思い起こさせます。この映画では例えば、VincenteとClaraの不安定な関係を表していますよね。Vincenteはこうした行動にも関わらず消極的で距離のある関係を表します。

 

この映画の3/4が情熱的な出会いであるなら、これらはClaraによって引き起こされます。そしてなんといってもこの出会いが彼の活力を、平静を装ってはいるものの、なくしてしまいます。ここで私はClotildeがVenturaを、言葉だけでなく手に持ったナイフを彼に向けながら後退してゆくカットで始まる「コロッサル・ユース」のことを考えるんですね。

 

「骨」では生まれてくる子の父と母の関係が、知れわたり、それによって続かなくなること、が表されています。

 

ゆえに私はこの映画を交互に見たときに、関係作りに失敗してゆく映画を見たという感想を持ちました。こうした親が子に立ち向かうこと、またその逆もありますが、のように関係が失敗することというのはロマンティックな関係がまた起こるというような、循環してゆくというテーマを表していると思いますか?

 

PC: 僕としてはよくわかりません。解読しようとはあまり思っていませんし、考えすぎるのはやめようと思っていますし・・・そのことを考えたくありません。僕は”ロマンティシズム”がそこかしこに出てくるような映画作家ではありませんし。風景の話のときのように、こういったことはいつでも起きますし、いつでもロマンティシズムの逆を、とても暗いものとしてとらえることも、できます。

 

LG: なるほど、あなたがそうすることはわかりますが、私がこれらの映画を見ていて聞きたくなったのは、こうした視点も持って作られているのかということなんです。

 

PC: 例えば「骨」はロマンティシズムや愛といったものは現れていないと思うんですよ。というよりも自分でもわかっていますが、現れていません。「骨」はチャップリンの映画からの引用でできています。

 

LG: 「骨」がですか?

 

PC: 同じ部分を例に挙げてみます。例えば「チャップリン」、チャップリンは父親みたいなものです、が同時に彼と同じ時代で彼と同じことをしていた映画作家が何人かいます。チャップリンの映画で欠けていたように、愛や感情といったものが少しばかり欠けている。「骨」は冷酷な映画です。残酷であり、この映画の出来事は一部は意識的であり、もう一部は無意識的に起こっています。・・・ちょうどこんな言い伝えがあります。赤ん坊を交換する話で—みんな今にも死にそうな赤ん坊を欲しがっていて、交換することで生まれ変わらせるんです。だけどそうすることでほとんど誰もが彼の父親となり、母親となる。時折父親は女の子がなり、逆に男の子は赤ん坊にとっては母親的役割になる。こんなことがこの映画でも起きています。僕にとってこの映画の中盤に出てくる人々の顔というのは、”超越的何か”になっているように思います。

 

LG: 私がこの映画を見たとき、最初のシーケンスを見たときに感じたことは、Vanda Duarteの髪型と赤ん坊の父親の髪型で、角度によっては、これは背後からでも正面からでもそうなのですが、どちらがどちらなのかわからなくなりまして、そのことにとても驚いたんですよ。

 

PC: 僕がこのことに気がついたとき・・・

 

LG: 登場人物が同じに見えるときですか?

 

PC: そのときではありません。僕が見たときは・・・僕は気がつきませんでしたが・・・そうした催眠的な状態にもっとなろうと言いました。面白いですね、こういう状態というのは別に新しいものではありません。こういう話では、こういう解決しがたい問題というのはみんなに起こります。だけどこの場合はちょっと違うのではないかと思いますね。父が本当に母になるわけですから、彼の中の女性性というものが立ち現れてくる訳ですから。

 

LG: この映画には「聖母子像」を思い起こさせるような瞬間があります。

 

PC: このクルーの全員が、この女の子も含めてそうなのですが、明らかになんというか・・・完璧以上のものがありましたね。ここにはナースがこの赤ん坊を抱きかかえるというシーンがあるのですが、このシーンを撮り終えた後にナースが「絶対に彼を超えることはできないです。彼は赤ん坊をどう抱きかかえているのかわかっている。」と言いました。

 

チャーリー・チャップリンは赤ん坊の抱え方というのをわかっています。神秘的です。映画で男性が赤ん坊を抱くというのは素晴らしいです。だから僕もこの髭付きの母親という状況をやりました・・・そして上手くいきました、上手くいったのです。そして女性達はより男性的になりました。僕は彼女達の顔に強固さとか、丈夫さが現れているということや彼女達がとても強いということを言っているのではありません。突如として彼女達は穏やかさ、女性らしさといったものの正反対へとなったのです。

 

だからこのカットは上手くいきましたし、面白かったです。撮りながらクルーと一緒に話して、クルー達は理解できず「この髪の生えた女は誰なんだ?どこに行くんだ?赤ん坊はどこに行くんだ?」と聞いてきたんです。そしたら赤ん坊はわけがわからないといったような表情をしました。この性差というのがとけ込んでゆくときというのはこの映画で好きな部分ですね。

 

LG: 「骨」を見ながらこの父と息子の関係というのは何なのだろうと思っていました。最初はあたかも父は、傷つきやすく、無実な息子を道へ連れて行ってわずな金をせびり、その金で酒を飲むための手段であるかのように使いますよね。

 

「骨」ではこの父と息子の関係というのをどうも私ははっきりととらえるができません。「『聖母子像』のようなカットを見ると、この二人の関係ははっきりしているよな、けど他の場面、例えばある女と寝た後なんかは『この子にいくら払う?』って聞いているしな。」と思ったんです。

 

PC: この映画の成功というのははっきりと伝えることができて、なぜそんなことをしたのかというと、この男の存在なんです。彼はジャンキーでよく道ばたで寝ています。ある日見つけて映画に出てくれないかと頼んだんです。彼は最初私を警察だと思ったそうです。だから私は彼とちょっと距離をとりました、というのも彼はとても怪しかったんですよ、そしてだんだんと良い関係になり、最終的に、私は、友達になることができたと思っています。どうしてこんな話を伝えているかというと彼は映画を作った後、蒸発したんですよ。僕だけじゃなくてクルーのみんなが彼を好きでした。彼は少しばかり映画に出てくる人みたいで、優しくて、ちょっぴり消極的で、いつも落ち込んでいて、悪い人じゃなかったんですよ。

 

LG: 彼は悪い人じゃないんですか・・・。

 

PC: 彼はちょっと詩的な男でね、僕が好きなのは見た目だけじゃなくてかれが言っていたことでもあるんです。彼は何百もの映画を作れるような2、3の事柄を教えてくれました。彼は最初、映画のタイトルを教えてくれと言いました。僕は彼に、多分「OSSOS」、骨という意味ですが、になると思うと伝えました。そしたら彼は、なるほどと、貧しい男と貧しい人々を見たときに人々はそのことを見るんだなと言ったのです。これは私が考えていたこととは違ったのですが、けれど非情に的を射ています。

 

LG: 彼がシャツを脱いでカメラが彼の骨をとらえるときでしょうか?

 

PC: そのときは考えてなかったですね。(「骨」というタイトルにするという)アイデアは僕が好きなドイツの詩人の詩を読んでいたときに思いついて、この言葉はちょいちょい彼の詩の中に出てくるんです。そして、私たちがいたあの場所、骨というのはとても強く、同時に灰であり・・・死でもありますよね。で、私たちは赤ん坊とリハーサルをしなくてはなりません、彼はドラッグという明確な問題を抱えています。彼は日に何回か注射し、服用していました。だからバスルームで彼が注射をしているときは撮影がとても難しかったですね・・・。私が「君は赤ん坊と一緒にこの映画に出るんだ、ずっとこの子と一緒だ、そしてもしかしたら君はこの子を売りたくなるかもしれないし、もしかしたら殺したくなるかもしれないし、見捨てたくなるかもしれない、僕にはよくわからないけれど、やっているうちにわかるだろう」と言ったら彼はこんなことを言いました「わかった。けど、よくわかんないな。僕が赤ん坊を抱えたら、僕は赤ん坊よりも弱いと感じるかもしれない、僕が腕の中に赤ん坊を入れたら、僕がより弱い者だと感じるかもしれない。」

 

僕はとてつもなく難しいものを見たと思いました。彼らが悪い人間だからではありません、彼らが魔女や悪魔だからではありません。これはそうしたものではない、お金です、なんでこうしたお金と呼ばれる悪がここで出てくるのか。お金が関係性というものにからんでいるからです、お金によって私たちは私たちを組織立てようとしているからです。だから、僕は愛というものはよくわかんないですね。

 

僕には愛についての映画が一つあります、まあ愛についてではないのですが、けれど、愛が現在的であり、完全であり、決定的であり、永遠であり、最も強いものとしてあります。それは僕がジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレと一緒に作った映画です。なぜなら彼らは僕が知る、一秒たりとて愛し合っていない瞬間の無い、いつも愛のある人々だからです。彼らは永遠に愛し合っています、それ以上です、高揚、彼らは常にとても高揚しています。そんなシンプルな映画というのは僕が作っていた「あなたの微笑みはどこに隠れたの」という教訓的な映画作りについての映画で、「シチリア」という違う映画を編集している映画なんです。というのは彼らこそが映画作家であって、今でもあるからです。だからこんなロマンティックな映画は、多分他にないんじゃないですか、いや、多分1番はチャップリンの「街の灯」でしょうから、僕のは映画史上2番目にロマンティックな映画ですね。僕は愛についてはよくわかりません。嘘にも程度があるだろうと、愛を映画で語られるとき、僕は勘弁してくれよと思うわけです、猿みたいな人を作っているのかと、本当に我慢なりませんね、最近のは特にそうです。

 

LG: あなたの今おっしゃったことは、ラブストーリーの映画で愛を伝えることの難しさを感じないときというのは自身が愛というものと直面しているときだと、真の愛だと思えるものと直面しているときだということですね。

(意訳:あなたの今おっしゃったことは、愛を伝えることができる映画というのは作者自身が愛を経験しているときだと、真の愛を今まさしく経験しているときだということですね。)

 

PC: その通りです。

 

LG: あなたの他の映画でリアリティに向き合っているのは・・・

 

PC: L’amour n’existe pas! モーリス・ピアラという人の「L’AMOUR EXISTE」という映画があります、とても素敵な映画です。ただ、僕の経験としては愛というのは存在しませんね。これは僕の内面から感じたことではなく、見たことです。もちろんこれは映画内で表現されることがありますし、誰かはそれを感じるでしょう、誰かが何かを見つめるといったシーンで・・・ただ基本的にはそこに愛というものはありませんね、残念ですが真実です。「ヴァンダの部屋」公開されたとき私はこのことでとても非難を浴びました。彼ら(登場人物達)が憎しみに満ちていると、反抗的だからではありません、何かで満ちていると・・・命に関わる何かだと。この非難は、どの登場人物にも観客が寄り添うことができないからだという作品の基盤に関わることに対して言われました。僕、監督にしてもそうだと。そしてこう言いました「彼らには楽しみがない。人生の欲求がない。彼らはこんなではない」なぜなら、彼らが言うには「これらの人々、アフリカ人、というのはこういう人達ではない、彼らはいつでも歌い踊っているものだ、パーティーをして、クスクスを食べるものだ。」

 

LG: ずいぶんと無礼なコメントですね。

 

PC: はい、ただこれが人々が映画に求めているもので、これが人々が見たいもので、これが人々が見たい人々なんです。黒人が現れればファンキーなことをして、ドラッグをやっている人が現れればカメラはこういう動きを—ダッチ・アングルというやつです—ジャンキーが現れればヘロインを買うための20ポンドが欲しくて自分の祖母を殺す。だからこういうことをすると非難されるわけですよ・・・ジャンキーがしっかり正気で母や父とかご近所さんとか思い出とかのことを話していたりとか、いわゆる映画で白人が苦しめられるのと同じようにアフリカ人が痛みに苦しむのを見たりとかするとね。それか、この非難が映画の根本に向けられた理由というのは美化されすぎているという意味かもしれません、彼らの言い方をすれば、こんな綺麗すぎる場所なんて無いんだと。

 

LG: ちょっと技術的な話題に踏み込んでみましょう。どのようにこうした”事実”としての生を表現したのか、どのように先ほど話されたような観客の反応を引き起こしたのか、編集という側面からお聞きしたいです、mise-en-sceneという言葉通り、照明と色について。あなたは半崩壊し、部分的に残された家に入り、そこの光を利用したのでしょうか、それとも光を変えたのでしょうか。

 

PC: 先ほども言いましたが僕は機械的な照明というのはあまり好きではありません。[このインタビューは5時45分くらいから、闇に現れる自然の光について話しており、彼はそこで自然光を使いたいと述べていた。] こうした照明というのは私たちの生活に無くてはならないものではあるのですが、僕はどうも良いとは思いません。目によくないですよ。僕は山羊座なんです、ふざけて言っているんじゃないですよ、僕は古い人間なので古いものが好きなのです。照明は私にとって古いものです。絵画について話しているのではありません。もちろん絵画というのはいかに照明が古く、高価なものだったのかを示すわけですが。ただこれを再現する、というのはとんでもなく難しいことです。最高の照明技師とてね。

 

僕は、僕がお金をただただ嫌うように、僕が別にほしくないクルーと関係を持つのが嫌なんです。僕はほとんど一人で映画を撮ります、これは本当に全てを知るということです、毎日どれくらい、どうやって撮ってゆくのか。だから「ヴァンダの部屋」の照明というのは毎回違います。あそこには小さな窓があって、雲があるときなんかは鏡を使いました。けれどこの映画はどうも変な映画です。映画それ自体が映画を作ったとでも言えるような、神秘的なものでした。これは私が唯一、映画の生というのを感じることができましたし、照明そのものの生というのも感じました。この映画の明るさというのはヴァンダを含めた人々の明るさでもあります。

 

LG: この主人公達はこの映画を見たのですか?

 

PC: 「骨」という映画から同じ地域、同じ人々で映画を撮るようになりました、役者として登場する人々だけではなく。同時に場でありコミュニティであったりするわけですが、彼らは映画を見たがります。特に「骨」「ヴァンダの部屋」「コロッサル・ユース」にいたる流れには進歩していることを感じました。「コロッサル・ユース」にいたっては映画を撮ることは大切だと考えるような地点まで行くことができました。ほとんどの人々は映画を撮ることは楽しいと思うでしょうし、「映画を所有する」という体験が好きですが、近所の人はあまり好きではないでしょう。ちょうどフットボールのように!「コロッサル・ユース」ではこの地域に住む僕の若い黒人の友達がとても美しいことを言ってくれました。映画の上映が終わった後、彼はそこに来ていたVenturaのもとへ行き、「素晴らしいよ。僕は君を毎日見て、酒を飲み過ぎていることに怒っているし、君はだらしない。ここに現れた君を見るとまさしくそんな僕たちがそのまま出ている。いったいどうやってこんなことが出来たんだ?」

 

これこそとても大切なものです。なぜなら彼らの生活を何も変えていないからです。僕は彼らにお金を払っています、もちろん彼らは雇われているわけです、けれどこの支払いというのは現実の世界と同じなわけです、映画だから特別にというわけではありません。何も変わりません、彼らは新しい家があるわけでも、新車があるわけでも・・・彼らはスターではありません。だけどそんなことあまり大切ではありません、他に大切なことはあります・・・けれど彼らの生活は何も変わりません、喜びとか楽しさとかは別ですが・・・。だけど例えば「ヴァンダの部屋」と「コロッサル・ユース」では考えていたスケジュールというのは完全にどっか行っちゃいましてね。僕は誰かが現れて助けをこうたら、そして僕が行くことでなんとかなるのなら、撮影を止めるつもりでした。これが僕にとってハリウッドとの違いだと思いますね。

 

LG: 「ヴァンダの部屋」と「コロッサル・ユース」では誰かが部屋の中で話している最中にバックでラジオやテレビの音が彼らは聞いていないのにひたすら流れています。私はこの音によって登場人物たちの会話が”侵入された”ような感覚を持ちました。あなたは何かこの音との関係を作りたかったのでしょうか、それともこれは単純にいつも見て、聞いていなくともテレビやラジオはついているものだったのでしょうか、コメントをいただけたらと思います。

 

PC: 多分テレビはいつもついているんです。けどこれはこの場所だけではなく、世界中どこに行っても同じことが起こっていますよ、レストランとかコーヒーショップとか。

 

LG: こうした細心の注意の払われた、私は払われていると思うのですが、音響というのは登場人物をとりまく残酷な状況を表現するのに、間接的ではあるにしても、役立っているとお考えでしょうか?

 

PC: その場によりきりですね。たとえばヴァンダの場合ですが、彼女は時折本当にテレビを見ているんです、動物の番組しか彼女は見ませんが、ワニとか漫画とか。あなたのおっしゃった質問にはYESと答えますね。単純にそこにあったからとか、取り外したら嘘になるからとか、何かのカモフラージュだからとかではなく、基本的には残酷な状況があるのだということです。

 

LG: 音があるということによってそれが強調されると私は思うのですが。

 

PC: テレビの音だけではありませんね。近所の子供達の声とかね。例えば特にアフリカではそうなのですが、とても個人的で内密的な会話はそれを取り巻く環境とともになされます。彼らは大声で話して、うるさく、やかましい世界です。例えばヴァンダのシーンでは、女の子がごまんとあるテレビやラジオ、誰かの叫び声に囲まれながら宿題をするという場面があります。これは重要なシーンです。ここに住む住民達がこれを見たときに一人の男性がこれの重要なシーンだと伝えてくれました。なぜならこのカットはこの少女が6歳にしていかにしっかりしているのか、彼女が近所に住むお金持ちの子と比べ何十倍もの努力をしているのかを伝えているからです。

 

LG: 「コロッサル・ユース」後、あるいは「ヴァンダの部屋」「骨」後、美学的視点から考えると「血」とはだいぶ違ったものになっていると思います。これについてどのようにお考えですか。

 

PC: これ(「血」)は私の最初の映画です。多分どの映画もそうでしょうが、映画作家というのはうぬぼれた作家ではない限り、自分自身の声、メッセージというのを見つけることにだいぶ時間がかかるものです。僕がこれを作ったときというのは、僕が思うにどの監督も同じだとは思うのですが、これはエネルギーあふれる若い時分にロマンティシズムある若い友達と作ったものです。そして僕の場合は好きな映画や人々を映画に入れましたので、ごちゃごちゃしてます。教会や聖堂に行ってみて、人々の助けを借りて、ニコラス・レイとかフリッツ・ラングとか・・・。

 

LG: F.W. ムルナウの「サンライズ」とかロベルト・ヴィーネの「カリガリ博士」もそうですね。

 

PC: つまり、これはなんというか・・・「映画の映画」なんですね。映画館から出てきた映画でリアリティとは違う。このリアリティとは違う”何か”は僕にもまだはっきりしません。こういった”映画”の瞬間について最初に話しておくべきでした。初監督作品にはこういったものが多いんです。

 

LG: Vicenteの父というのはどのようにして死んだのでしょうか。

 

PC: どのように?知りませんね。

 

LG: 知りませんか・・・ここには二つ意味があるように思います・・・もしかしたら父親殺しなのかもしれませんし。

 

PC: 映画内ではVicenteが非常に小さい声で、おそらく父に話しているであろう声が聞き取れます。彼はショット内にはいません。こんなことを言います。「なにやってるの?なんでここにいないの?どうして僕たちを見捨てるの?」正確には思い出せませんが、全体として「どうしていつもいないの?」と言います。これには色々意味があり、この途中に「で、病気はどうするの?」「本当は病気なんかじゃないんでしょ。」と言います。これは息子が親を疑ったときの決まり文句みたいなものです。たとえ親が死ぬ場面だとしても「これは現実じゃない。死んじゃうなんて僕は信じない。」とか言います。本当に死んじゃうにしても。

 

僕がこのシーンで何をしたかったのか、役者になにをさせたかったのかというと、共同墓地で恋人同士の女と男が遺体を埋めるという・・・僕はこれはとんでもなくロマンチックだと思ったんですよ。少なくとも僕には。最高のラブシーンとは誰かを埋めるときだと思ったんです。本当に愛し合っているときにね。

 

LG: Ninoは最後、一人で離れてゆきますね。誰かと話している最中だというのに。あれは誰に話していたのでしょうか。

 

PC: 知りません。・・・どうしてこういうことを聞くんです?

 

LG: 私の考えではこの男の子は彼を取り巻く問題から逃げ出すことを決心したと、彼が強いと思い、安心できた相棒とも縁を切ろうと決心したと、思ったのですが。

 

PC: そんなこと知りませんよ。・・・ショットの中にいない人物についてなんて。声は「大丈夫か?」「うまくやっていけるか?」とは響きます。彼はボートにいて彼らが川の近くに住んでいることは見てわかります。なのでNinoはもしかしたら家に帰ったのかもしれませんし、ただ川に行っただけかもしれません。これは映画です。シネマであり、想像することです。声というのは、先ほども言いましたが詩的なこととして使いました。僕にとっては、こういう強い男の子がいて素晴らしい役者がいて、「もうこれで安心だ」と、それが言いたかったわけです。これで安心、映画は終わると、それ以上でも以下でもないんです。

 

LG: 編集作業はどうなのでしょうか。全てのショットが撮り終えた後の作業というのはするのでしょうか。

 

PC: やりますよ。毎日毎秒、いつもしてます。ほとんどのことは僕が自分で決めます。ただ一人ではやりません。僕は編集作業が結構好きなんですよ、時折つらいこともありますが。骨折れる作業ですし、時間もとてもかけます。「ヴァンダの部屋」は9ヶ月間かかりました。

 

LG: デジタルでやるということについてはどうお考えですか?

 

PC: もちろん安いということもありますが、それ以外の理由もたくさんあります。「ヴァンダの〜」が初めての小さいデジタルカメラでの作業でした。多分あの映画がデジタルで撮られた初期の・・・ゴダールは既に70年代に使っていましたし、ラース・フォン・トリアーや他の連中は1995年に使ってましたが。僕は1996年にカメラを買って、僕の理由というのは僕を取り巻く世界を変えたかったんですね。僕は多分、悪い、いや、良い時期でしたね。僕は働いているという感じはしなくて、6週間も贅沢な時間を過ごしました、僕を迎えに来る運転手がいて、一日中介添してくれて、何を食べたいかとか飲みたいかとか聞いてきて、どこにカメラを置こうかとか。だから時々なんかおかしいと思って、あの絞りで撮ったことに対してどうも満足いかなかったですね。

 

カメラの後ろで起こっている事とカメラの前で起こっていることのバランスがどうも見失ってました。僕にはできなかった。だから時々僕のせいでカメラの前で何も起きなかった(後ろで起きていた)ことがありました。僕にある程度忘れることの強さがなかったんですね。だから僕はカメラの前よりも後ろで起こったことを色々見ましたし、カメラの前でやったことはほとんど他の人達と同じことでした。だから何か違うことをしたかったんです。僕はもっと制作面を変えようと決めまして、というのは僕はアートをやっているという意識が嫌だったんです。かのベルトイト・ブレヒトがこんなことを言いました「仕事において大事なのは組織することだ」、あるいは制作と置き換えてもいいかもしれませんが、僕にとって、あるいはショットにとって、シーンにとって、映画にとって、面白いことが起こるのは制作面でした。ではどうやって計画して作っていこうかと、そうしたら思いついたんですね。小型カメラはシンプルだし経済的だということです。

 

最初はそんなこと思ってませんでしたよ。僕はでっかい35mmカメラや照明に慣れてましたから、こんなカメラを使ったときには「こりゃ小さくてひどいものになるな」と思いました。けど少しずつ何かが、あの地域と、あのカメラと、ヴァンダと起こり始めました。カメラとアイデアだけではあれは起きなかったですね。カメラとアイデアと、女の子と、男の子と、家と、人々と。これは願望と似ています。あなたは単純に女の子と男の子が欲しいとは思わないでしょう。色合いや20年前の記憶から、その女の子がいることで、とある男の子を思い出し、その男の子はまたその女の子を思い出すような人が欲しいのではありませんか。

 

 

インタビューの要約:Steve Williams

翻訳:Sota Takahashi

不明解な箇所、誤訳、ご指摘等ありましたらコメント欄で教えてください。

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LIGHTS OFF ON PEDRO COSTA 和訳文」への2件のフィードバック

  1. Arigato! We’re really glad you enjoyed the article. Thanks for sharing and translating. Rosy Hunt (Editor, TAKE ONE)

    • Thank you so much! I actually worried doing this without permissions, but because the interview is so interesting so I thought probably many Japanese would like to read too, and so I did.
      Is that ok to do translate some of your other articles as well?

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